寺よ、そろそろ本気で立ち上がってくれ


 友人のパパが亡くなった。

まあ、見送る年齢になったと言えば、それまでだが、やはり切ない。




しかし、喪主は大変である。

怒涛の如くの葬式一切を仕切り終わると、もぬけの殻になってしまう。

 

とにかく葬式業者と寺の営業に疲れ果てたんだそうだ。

 

大体、人は急に死ぬんだが、そろそろ危ない!と言われてから

通夜をやって、葬式をやって、焼き場に行って、お骨を持って帰るまで

喪主は寝ていられない。

 

つまり、睡眠不足でこれら業者と初めての話し合いをしなければならないのだ。

当然、あちらの思う壺。

「これが普通」

「こちらがスタンダード」と言われたら、そういうもんかとなり

ドンドン、料金が跳ね上がる。

 

友人の家は檀家の中でも地位が最上位クラスで、従って出す金額も

決まっているので「検討の余地」すらなかったらしい。

なすがまま。

 

「葬式だから仕方ないけど、寺はそもそも金を取りすぎる!」と訴える。

 

何でも、寄進とか言われて金を取られたときにはその金がデカい提灯に化けていて

(提灯に○○家と書いてある)驚いたそうな。

 

この話を聞いて思い出した。

 
ウチのド田舎の寺でもそういうことがあった。
 

なんでも本堂を建て替えるとかで強制的に金を取られたのだ。

 
しかも、その金は任意の金額ではなく、檀家の格によって決まっている。

その家に現在、現金があろうがなかろうが「格」というものが優先される

システムである。ちなみに段階は結構、細かく分かれている。

 

我が家も清水の舞台から飛び降りるつもりで出した。

というか、徴収された。

 

それから、しばらくして本堂お披露目の日が来た。

 

アタシは行って仰天した。

 

我が家のなけなしの金が「緞帳」の「ふさ」になっていたのだ!

 

「緞帳」ならば、まだ納得するが、その「ふさ」って!?

そもそも「ふさ」要らなくね?

「ふさ」必要?

 

使い道がなくて、無理矢理「ふさ」にしてやった感、ありありじゃねーか!

 

寺にとっては「はした金」だろうが、我が家にとっては大金!

金返せ!!

 

という哀しい話があるので「寺」は大嫌いだ。

 

そういうことにビジネス能力を発揮するんじゃなく

寺子屋を作って、格安で塾に行けない子のめんどうをみるとか

学童の時間を外れた子のめんどうをみるとか

 

地域ボランティアの核となる場所を提供するとか

老人大学を開催するとか

 

そういう地域密着型の世の為、人の為になる小さな集合場所に

なるべき存在じゃないんだろうか。

 

このままだと、墓守がいなくなる(檀家がつぶれる)問題の前に

自らの存在価値は「葬式営業」だけになり、信仰を深めるという

最大のミッションは姿を消すだろう。

 

 

 

 

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