「仮面」のセレクトに失敗したら


 今日は地元マダムに大人気のイケメン先生によるヨガ教室だった。


 


なんで人気かというとそのルックスもなんだが「声」だということが、

今日のマダムズの話し合いで明らかになった。

 

いわゆる1/f(えふぶんのいち)ゆらぎ声の持ち主なんだと思う。

 

先生はヨガの前に必ず短い「説法タイム」を入れてくださるんだが

これが毎回、深い。

 

今日は「パーソナル」についてであった。

日本語にすると「個人的」とか「私的」って意味になるだろうか。

 

これの語源がラテン語の「ペルソナ」であるとかで、つまり元々「パーソナル」は

「仮面」という意味を由来に持つということで、マダムズたちは一斉に

「へー!?」って声をあげた。

 

人は仮面を常に付け替えて生活している存在で、それは瞬時に

何枚もの仮面の中から選んで付け替えているのだそうだ。

 

「母親である自分」「妻である自分」「ビジネスシーンでの自分」

「買い物客である自分」などなどを指す。

 

ヨガやスピリチュアルな世界では仮面を取った本当の私を

見つめることを大切にする時間ってことで、そのありのままの自分という境地を

見つめて深めましょうというのが今日のテーマだった。

 

我が子が「イジメ」に苦しんでいる、或いは「教室に居場所がない」という

母からの悩みを受けることが多いが、全ケースに当てはまることではないが

学校の中で「ペルソナ」の選択ミスをした可能性が考えられる。

 

「リーダーシップを発揮する仮面」を付けるべきか「ひょうきん者の

仮面」を付けるべきか「おとなしめ」にするか「優等生」にするべきか

「ちょい悪風」にすべきか、そういう己の立ち位置に迷いながらの

4月、5月であったと思う。

 

イケているのか、イケていないのか、立ち位置を何処に持って来れば

安全地帯なのかを意識的にも、無意識的にも考えながら、クラスでの

スクールカーストが形成されていく。

 

これは集団という相手がいる中で形成されて行くものなので、自分の

思惑どおりにいくとは限らない。

 

そのときに不幸にして「下に見ていいヤツ」判定がくだされると

徐々にターゲットになって火祭り状態になる。

 

うまく立ち回れなかった、或いは俗に言う「空気読めない」という

レッテルが貼られると、一気に「いじめていいヤツ」審判になる。

 

この辺の立ち回りをレクチャーする機関などがあれば良いのだが

その集団の中の微妙な位置関係がそうさせているので「この能力さえ

持っていれば!」ということにならないことに問題の深さがある。

 

統計を取ったわけではないから体感温度という表現でしか言えないが

アタシが思うに、対人関係でスイスイ行っていない子どもを持つ母自身が

人付き合いがうまくない。

 

多分、母自身も相当、下手だと思いながら、幸運にも「いじめ」を

経験してこなかったケースが多いのでは?と勘ぐっている。

或いは、悪夢を強烈に持っている母もいるだろう。

 

でも、そのことが我が子を逆に支えるとアタシは思う。

 

誰からも愛されて、地球は自分を中心に回っているかのような

ワンダフルな学生時代を送れた者はこの世にひとりもいないとは思うが

 

自分自身はその真逆を行ってしまったという思いを持つ母ならば、尚更、

好都合である。

 

我が子の気持ちがわかるからだ。

 

まずは「人は仮面を付けて暮らしている」ということを説明しないといけない。

 

できれば素顔に近いものを選べれば、皮膚呼吸もしやすいので

その仮面がベストである。

 

しかし、それのセレクトが全くわからず迷走する場合がある。

或いは疲れ切って、仮面をセレクトする力も残っていないっていうケースも

あるだろう。

 

アタシはその状態を「引きこもり」と呼ぶのではないかと思っているが

青春時代はセレクトミスをし、迷走し、仮面にひび割れを起こしということが

日夜繰り返されるものという認識である。

 

そうして、徐々に「なりたい自分」「あるべき自分」というようなことを思考し

「何故、生きる?」の哲学にはまるのが正しい道だと考える。

 

母は我が子がその道の上に立っていると認識して、この出来事は人生を

必ずや深めると、まずは一旦、落ち着こう。

 

そして、根拠ある「大丈夫!」を言い続ける、これがポイントだ。

 

根拠は「人付き合いが最低」な自分自身が結婚して子を設けているという

既成事実に他ならない。

 

「どっこい、父ちゃんも、母ちゃんもこうやって生きている、だから大丈夫」

この理論だ。

 

まず「死ぬな」

これでいいと思う。

 

「嫌なら、逃げろ!」これが大事だ。

 

最近、塾での人間関係で我が子が苦境に立っているという相談が入ったが

「以前の塾でも同じことが起こっての転塾だったので、これは我が子の方に

問題があるのでは?

ここで、また逃げるという選択よりも、修行ということで、このまま

乗り越えさせるべきか?」という内容だったが、アタシはこう返答した。

 

「アホか!?」

 

「修行」というのは人間関係には使わない。

 

相手の性格を変えることなど出来る人間はいない。

であれば、選択肢は「自分が達観して変わる」か「逃げる」かの2択だ。

 

「逃げる」というから聞こえが悪くなるのであって「環境を変える」。

 

青春時代に「達観」などして「老成」する必要はないのだ。

自分というパーソナルが固まっていないのに「達観」なんて出来ない。

 

環境を変えるために、まずはあらゆる「努力」をしなさいよと回答した。

まず、そこでどうすれば快適に近づけることができるのかで奔走し、

無理ならば「孟母三遷」。

 

これも最近、入ったニュースだが入学した学校で対人関係に失敗。

なんやかやあり、公立に転校。そこでも壮絶なイジメ。

再び別の私立に編入。

今はパラダイスというものだ。

 

はっきりと言えるのは「そこにしかない幸せというものは大した幸せではない」

ということだ。

 

そこに「幸せ」が落ちてないのなら、別のところで拾えばいいだけじゃね?

ってアタシは思う。

 

人付き合いの悪いあなたなら、実感として意味がわかるのでは?

 

 

 

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